鈴木博士と満州の化学工業(昭和18年12月)
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佐藤正典
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(1) 緒言
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故鈴木博士は明治45年に招かれて満鉄に入社せられ、爾後在満10有余年、先生が満州の化学工業界に残された足跡は実に大なるものがある。
先生は科学界の天才人として、その豊かな学識と非凡な着想とを縦横に駆使され、その結果は研究室の優れたテーマとして、或いは化学工業の新たな構想となって随所に現れ、その片鱗が今日満州の化学工業に不朽の歴史を留めるのである。
オイルセール工業、マグネサイト工業、或いは大豆工業の各方面に於ける研究の端緒は、その多くが先生の創意に依って生まれ、今日それぞれ大工業として育成されたのであって、私は先生を以て正に満州化学工業の父と呼びたい。
先生は名利に疎く、その折角不滅の業績も自ら綴られて文献にのこされたものは極めて少ないが、「満州化学工業大系」に依って当時先生が科学者として満州の化学工業の将来に対し、抱かれた大きな構想が覗える。
ここに記す数編は特に先生の発明発見が発端となり、その後の企業化され今日満州産業界の先端をなすものであるが、更に先生創意の下に後進によって遂げられた研究業績の数々に至っては真に枚挙に暇がない。
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(2) 鞍山鉄鉱会雑誌(第一号所載)発刊の辞
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鈴木庸生
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人類が他の生物と異なる特長は脳の働きであって此れを使用して他の生物との生存競争に打ち勝って全世界を我が物顔に占領している。現今人類の所有している利器は此の特長である脳の力を傾注して編み立てたもので近代では科学として発達しつつあるものである。科学は人類の思考智識経験等あらゆる脳の働きを極度まで働かせた結果を分類格納した倉庫と言っても差支えない。今は此れを利用して天然の材料と天然の動力を使用して充分に自己を養うと同時に他の生物を征服して人類と他の生物との間の関係は以上の通りで生存競争に勝ちつつある訳であるから別段の心配はないが人類自己の存在を確かにしている。
人類と他の生物との間の関係は以上の通りで生存競争に勝ちつつある訳であるから別段の心配はないが人類相互の間に生存競争はなかろうか、人類が他の生物を圧倒して増加するに従い烈しい生存競争がお互いの間に起こるのである。しかもその単位が民族であって昔から常に異なった民族の間に生存競争が行われ互いに盛衰のあった事は歴史が明らかに証している。何れの民族も常に戦々恐々として自己の存在を保証する為に苦心している有様である。古代は専ら体力筋力等を用いたが近代では主に科学に依って豊富な天然の材料と偉大な天然の動力とを使用して生存を保証している。平時に於いて運輸通信生産衛生教育等直接或いは間接に民族を養う事業に此れを用いているのは我々が毎日見聞する所であるし、又此れを戦争に用いたのは近時の欧州戦<第一次世界大戦>が適当な例である。今日では科学と材料と動力がなければ民族の存在は出来ない有様である。
科学の力の発動に必要なのは前に言った通り材料と動力とであってその中最も多く用いられるものは鉄と石炭とである。此れが有って初めて民族の活動が出来るのであって詰まる所人類は一層狭義に民族の存在はその所有する鉄と石炭とに依って保証される訳である。
鞍山には我が満州鉄道会社の製鉄所があって毎日此の必要な鉄を製造している。本製鉄所の目的は我が大和民族の世界に於いて優秀の地歩を保証する唯一の材料を製造するのであって同時に此れが本製鉄所の「存在の理由」
Raison d' étre である。
こうして我々は製鉄所の従業員である以上他の民族に比較して可成容易に且つ精巧な鉄を精出する事は我々の義務並びに責任であると同時に我々の抱負である。これを実現する事が出来れば我が大和民族は他に比して優秀な地歩を得る訳である。此れを成し遂げるには能力を使用しなければならない。科学に依らなければならない。我々製鉄所の殊に技術方面に従事する人々が鞍山鉄鋼会を組織したのも全く前記の義務責任及び抱負の自覚から起こった事であって極力経験を積み科学を利用して容易に精巧な鉄を精出しようと言う目的を遂行する一手段である。又鞍山は天然の条件即ち原料、地理、水利、燃料等につき他の地方と異なって困難な点が多いから研究すべき事項も従って多い。此れが為にその従事員中にも各方面の専門家があるから皆々その智識を一団に総合してその精鋭を「製鉄」なるものの上に注ぐ必要上本誌の発刊を企ててただいまその第一号を発刊する運びとなった。
将来本誌の内容が東洋は勿論世界に於ける製鉄界の指針となり権威となる事と同時に会員各位が前記の自覚を以て本会並びに本誌の将来を盛んになる事を衷心より希望する次第である。
目下本会会長長井上博士は渡米中であって遺憾ながら本誌の首題に筆を染められる事が出来ない。しかし同博士平生の談話並びに論文に依れば恐らくは本誌に対して自分と同じ様な考えを持たれる事と思う。
最後に洋々とした本誌の前途を祝福しつつ、自分は此の記念すべき一小篇を作り得た光栄を喜ぶのである。(大正10年2月24日 鞍山市中の草舎に於いて)
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(3) 大豆ベンヂン抽出工業
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大豆は満州特産物の大宗<本家>としてその年産額は400万トンに上り今日世界的に油脂及び蛋白資源として広く知られている。従って満州に於ける油房の歴史は古く90年余りの昔にあると言われる。
大正初年の系統による大豆製品の海外輸出額は総額5000万円<現在価約5000億円>に迫ろうとしている。
されどこの油房工業を技術的に観れば当時極めて幼稚なもので、旧来の楔<クサビ>式搾油法より手押し螺旋式に進み漸くその一部が水圧式に改良されたばかりの状況であった。
鈴木庸生先生が少壮科学者として中央試験所第二部長(有機化学部門)に就任されたのは明治45年で恰も高山甚太郎先生が同所拡充の大任を帯て新任された前後と思われる。
この様に有機部門を主宰された鈴木先生は着想の多い諸研究の中で、この油房工業の根本的改良の研究に関する熱意は強かったようである。即ち部員の上畠五一郎理学士によって研究の結果提唱された大豆ベンヂン抽出法を工業化しようとして上畠氏の研究陣を指導督励して遂に企業化するに至ったのである。
以下に大豆ベンヂン抽出工業の試験時代より今日への発展過程を尋ねてみよう。
上畠理学士は前記のように自らの調査研究の結果、油房工業の新生命を拓くのはベンヂン抽出法の採用にあると考え、部長の鈴木先生指導の下にこれが工業化試験を行おうとして大正2年7月、大連市寺児溝に工場敷地を選び、ドイツから購入した抽出装置一式を据付ドイツ人技師も招聘して同年3月、全工事を完了試運転を行い、ここに所謂満鉄豆油製造工場の発足を見たのであるが、これは正に本邦に於ける溶剤による油脂抽出工業の嚆矢<コウシ=起源>である。この様にして鈴木・上畠両氏協力の所産である前記満鉄豆油製造工場は中央試験所の所管としてその初代工場長には同所庶務部長祖山鍾三氏の就任を見たが、大正4年4月には当時応用化学科長の鈴木先生が自ら工場長を兼任して伏見台に於ける中央試験所本部との緊密な連携の下に本工業の育成に当たられた。試みに中央試験所文書記録によって当時の工場幹部を挙げれば次の通りである。
満鉄中央試験所豆油製造場(大正4年4月21日現在)
豆油製造場長(応用化学科長兼務) 鈴木 庸生
事務主任 福間 盛三郎
作業主任 上畠 五一郎
工場主任 井崎 内助
当豆油製造工場は敷地=500坪<1650㎡>、建物=70坪<231㎡>、建築費=33万円<現代価約33億円>、従業員数=70名、ドイツ製堅型抽出器=6台(バッテリー式)により日産大豆処理量=50トンといわれた。
本試験工場の操業と共に旧来の圧搾法に比して作業能率も良く、又その製品は豆粕及び豆油共に品位が優れていると認められ、商標「豊年」のマークの下に日本内地又は遠く海外の市場に良くその声価を認めるようになったのである。
ここに満鉄会社は中央試験所の研究目的も達成された事により、これが経営を民間の有力な事業家に移そうと、遂に大正4年9月6日、合名会社鈴木商店<*1>に工場一切を譲渡した。
以上の次第で抽出試験の工場は中央試験所の手を離れて奇しくも建設者鈴木先生と同じ名の下に鈴木油房として事業界に進出したのであるが、鈴木商店の経営に移って後は工場も大いに拡張され、優れた作業能力と製品と市場価値とは一躍して本邦製油工業界の首位を占めるに及び、遂に大増産に迫られ、大正5~7年の三年間に清水港、鳴尾、横浜の各地に工場が増設された(横浜工場は数年で清水港に合併)。その後大正11年本事業の経営を豊年製油株式会社に譲った。こうして三工場の資本金1000万円<現在価約1000億円>全額払込)、全生産能力は*000トンを越え本邦大豆油工業の王座を占めているのである。
星移り、人改まりその昔、中央試験所の豆油製造場は工業界への進展に伴い鈴木油房から豊年製油工場大連工場と改名され、遂に大工業として本邦内地への真に躍如し、発展の跡を見るが、現三工場で採用されつつある抽出技術こそは実に30年の昔、我が上畠、鈴木両先覚の努力によって完成された満鉄中央試験所の製油技術の延長にほかならない。
今日化学工業界に人と成り豊年製油の名を知らない者はいないがこの様な発展の歴史を尋ねて深く先人の功を思う者は少ない。ああ今や鈴木庸生先生は上畠五一郎両先生は相次いで物故され、満州油房の昔を偲び今日在るを知るに術もない、幸に本文がいささかでも故人の遺積を偲ぶ縁ともなれば先生門下の身として真に幸甚に過ぎないと念じる次第である。
(昭和17年12月21日・記)
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<*1> 鈴木商店=1870年鈴木岩次郎が創業、妻よねと番頭金子直吉らが主宰、1902年合名会社となった商社。台湾の砂糖、樟脳の取扱で成功。日露戦争・第一次大戦などに積極的投機経営で大きくなった。傘下にに60余りの事業会社を持つように鳴った。昭和20年戦後恐慌で打撃を受け、27年金融恐慌の際、破産。(アポロ百科辞典-平凡社)
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(4) 大豆油の硬化工業
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サバチェ教授の接触的水素添加反応に関する学術的創見(1896年)はこれが油脂部門への応用によってその工業価値への発展の端緒ガ開かれた。
即ち1902~1903年、ノルマン氏等(独)に依って硬化油製造に就いてのニ、三の発明特許が公にされるや1911年にはドイツゲルマニア製油所の製造にかかる油脂硬化の製品が同国内市場に現れ、その後まもなく硬化油工業は広く世界諸国に勃興を見るようになった。
満州は大豆油房の歴史は古く、日露の戦後満州大豆が欧州市場に紹介されると大豆油は有数な油脂資源として各国の注目を惹くようになったが、この頃から我が満鉄中央試験所で慶松、鈴木両博士並びに門下の人々によって大豆油成分の解明と共にその工業上、利用の諸研究が行われた。故鈴木庸生先生は自らの創意の下に故岡田徹平理学士を指導督励して大豆油水素添加の基礎的実験(満鉄中央試験所報告-大正5年第一輯183)よりその工業化に至る一貫的研究を行い、遂に大連市に大豆油を原料とする油脂の硬化事業を確立するようになり、本邦の油脂工業界に一エポック<新紀元>を画するようになった。当時本邦内地に於いては英国リバーブラーズ会社の硬化油工業の進出を見ると共に、商工省東京工業試験所に於いて故辻本博士及び上野誠一博士等によって魚油その他一般油脂類の水素添加の研究が行われ(工業化学雑誌大正2年~同3年)これらの研究は前記鈴木、岡田両氏の大豆油に関する研究と共に本邦に於ける油脂硬化に関する研究の嚆矢<コウシ=起源>と思われる。この様にして実験が行われる間に大正4年、横浜魚油株式会社に於いて魚油硬化の工場が開設され、これと前後して大連市には本邦最初の大豆油の硬化を唯一の目標とする大連油脂工業会社が創設され故鈴木先生は中央試験所の応用化学課長として現職のまま会社初代社長の重責を負うこととなったのである。
当時、いまだ民度も低く、産業文化のあがらない満州の地に、大豆油のこの水素添加工業が他の粗工業にも先んじて生れ出たのも一つに鈴木先生の創意によるものと言わなければならない。以下、先生指導の下に中央試験所に於いて行われた大豆油水素添加の研究報文(中央試験所報告第一輯岡田徹平)の要旨を述べることとする。
「大豆油の硬化について」
一、触媒の研究-に関してはパラジュウム、白金、銅、鉄、ニッケル等の金属につきそれぞれ触媒能を比較研究し、工業用触媒としてはニッケルの最も優れていることを指摘し、その調製法と回収法について述べた。
二、硬化方法と適用条件について詳細な実験を遂げ特に反応温度、反応時間についてこの実験結果より反応温度は180~200度が最も適当であると断じられた。水素源としては電解水素を用いる時は精製は要らず、直ちに使用できる特徴があるが、工業上には水性ガスを原料とするもの、又は鉄・水蒸気法等種々研究の余地ある事が述べられた。
以上の実験報告は油脂硬化に関する文献の多くない中に於いて、当時最も詳細を極めたものと思われる。こうして、本研究所は大正3年に一段落を遂げて本結果に基づいて同4年、満鉄瓦斯作業所(南満瓦斯株式会社大連工場)内に小規模の工業試験が行われた。これに使用する水素添加装置は、カイザー式模型器によりこれに岡田氏発明による独自の攪拌装置(特許29696)を適用し又触媒調製法(特許29697)及び硬化油濾過装置(29696)に就いてもそれぞれ同氏の創案に依ったものである。
こうして、特に水素製造法については鈴木先生は種々研究の結果その工業的見地から鉄・水蒸気法を採用しようとされ、その工業試験について大苦心が払われたようである。またこの時、べつに先生は油脂分解法による脂肪酸、グリセリン製造の研究も行われたが、たまたま以上の水素添加の研究と前後してその完成を見たのでこれらを企業の本体として遂に大正5年大連油脂工業株式会社(資本金50万円)<現在価約5億円>の設立を見た次第である。以下同社の目論見書の一班によると鈴木先生の満州の大豆工業に対する卓見と大きな抱負とが覗える。
---硬化油工業目論見書---
満州が油脂の豊富な事は衆知の事で、しかも工業は皆無に等しく、製油の大部分は単に原油として輸出していたが昨冬(註大正4年3月を指す)南満州鉄道株式会社により、創設された脂肪酸製造所は実にその第一歩としてしかも事実上有利な工業として世に紹介され、ここに始めて満州油脂工業の曙光を認めるに至ったのである。そもそも化学工業の有利で且つ安全な所以<ユエン>は、原料と製品とその質を異にして製品の価格は需給の関係にのみ支配され原料市価に左右される事は極めて少ない点にある。この点から脂肪酸工業の有利性を予期し、また事業に於いてこれを証明すると共に南満州鉄道株式会社の研究に因んで大成した油脂硬化事業の更に堅実で有利なことは疑う余地はない。
硬脂製造業は実に世界的大工業の一つにして、石鹸、ロウソク、その他の原料としてその需要は極めて多く「ステアリン」として年額10万トンを越え硬化油として正に15万トンを計上し追年その増加を示しつつある。しかもその価格の変動少なく英、独、仏、白<白耳=ベルギー>諸国に於いて前者は1トン、450円前後<現代価約450万円>後者は350円内外を唱えつつある。不幸にして東洋に於ける石鹸、ロウソク等の製造業は未だ甚だしく振るわず、硬脂需要の量は従って多くはないが、欧州動乱の影響は我が同業者の奮起を促し支那及び南洋、インド方面に油脂加工品の輸出を企画して、当該製造業は漸く世界的になるべき素地を呈すようになった。当時その主要原料の硬脂を欧州に求めようとすると彼等は不当な利益を貪るか、そうでなければ再生品として東洋に南洋に我々の製品と競走することは戦前と相違ないであろう。故に我々は我々の有する優勝する位置で戦わねばならない。欧州に於ける硬化油業は多くその原油を東洋及び南洋に求める不利があるが我々は直接原産地に於いて操業することが出来る利便性を有する。ここに一会社を大連市に設立し、豊富で高価な豆油を原料としてその良好な交通機関を利用し硬化油業の経営に当たり、産出する硬脂は一部を原料として残部は更に再製して支那、露領シベリヤ、インド、南洋、我国へ無限の市場に輸出し、一は国家的に他は本会社の利益を挙げる事を期待する。こうして初めは比較的小規模な工場として最も需要が多いい硬化油「ステアリン」の製造および販売に従事し、副業として石鹸、グリスリン等の製造を営み、世の趣勢に鑑みおもむろにその経営を大きくなるであろう事を期待する。
以上の経過により全く新しい化学工業としての大豆油の硬化事業は官民多大な期待の内に発足したが、総株2万株の内その大半は満鉄会社及び民間有力者間に振当てられ、残り3千株は一般公募にしたが、これに応募者は150倍にも達し、大連起業界に於いて未曾有の活況を呈した。当時本事業がいかに世人の注目を惹いたかというと事も想像がつく。
こうして硬化油にグリセリン石鹸販売を付帯して大連油脂工業株式会社(資本金100万円)<現代価約100億円)は極めて盛況裏に創立されたが同社の最初の重役陣は次のような錚々たる顔ぶれであった。
取締役社長 鈴木庸生
取締役 久保要造 相生由太郎 安田錐造 石本鏆太郎
監査役 川村柳次郎 長 敝介
この様に輝かしい誕生をみた硬化油製造事業も本工業が当時、余りにも斬新な化学工業であり、同じように化学工業の内でも最先端の技術を必要とした為これを真の大工業として育成するには先生自ら技術的にも一通りではならない苦心が払われた事と想像出来る。その上来襲した欧州大戦後の世界的不況は本事業の経営に多大な困難を伴う事となった。筆者<佐藤正典>は、同社設立の翌大正6年に鈴木先生門下として中央試験所に入所した者であるが、本工業の技術上では水素製造法中触媒の調整回収法等に、先生独自の創意が取り入れられ未熟な一青年の眼にも一発明、一研究の企業化の裏には到底並々ならない苦心努力の存在とが映された。
その後大連油脂工業株式会社はかなり長期間の不況の裏に、一時は資本金も減じられる憂き目を見、この間満鉄会社もまた硬化油工業創設の趣旨により、多くの犠牲を払って来たがたまたま満州事変後の情勢の変化により満州国産業開発方針に伴い漸次硬化油事業も好転し、昭和8年には再び増資を見ることになった。当該事業の発展と共に昭和13年には満鉄所有株の全部を日本油脂株式会社に譲渡すると共に会社は本社を奉天に移し、日本法人より満州国法人に変わり、満州油脂工業株式会社と改められ従来の大連工場の外に奉天に工場を新設して、硬化油製造事業の拡張と共に石鹸及び油脂分解の新工場を設置してそれに伴い資本金も一躍624万円<現代価役624億円>に増資され、その製品はは広く満州国内の需要に応じることとなった。
会社が今日満州帝国の発展と共に直接間接に日満両国の産業発展の上に寄与したことは少なくない。特にこの大東亜戦争に際会して広く国民の戦時生活のうえに貢献する所を思い、30余年前の昔を追想すれば我等の先覚故鈴木先生の化学工業に 対する創見に転じた感謝の念を禁じ難いものがある。
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(5) ソーライトとタンタルス
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大豆油のベンヂン抽出法や硬化油の様に大豆成分加工の根幹をなす大豆工業にたいして不滅の業績が残されたばかりか、鈴木庸生博士の常に、次から次へと沸き出る豊かな着想は大豆蛋白や大豆油の特性を究めて新たな利用方面にも数多の研究発明が成し遂げられたのである。ソーライトとタンタルスは鈴木先生が中央試験所時代で初期の研究成果である。溶剤抽出法により脱脂された所謂ベンヂン撒粕は蛋白質含量に富み、先生はこれを利用して所謂水性塗料を製造することに成功された。即ち発明の要点とするところは大豆粕を粉砕して水を加えて泥状にし、水酸化石灰の適量を混ぜ合わせ、数日間放置すると醗酵作用によって粕中に含有する繊維組織は破壊して遂に均質な粘稠<ネンチュウ>液となる。この時トルオール、クレオソート、石炭酸、樟脳油、フォルマリン等の揮発性防腐剤を添加して醗酵を阻止し、これに顔料を混練すれば乾燥性のよい大豆蛋白水性塗料が得られる。本製品に対して先生はソーライトと命名され、大正2年9月13日、特許第24595号、発明者鈴木庸生として特許を取得された。水性塗料は室内の塗装用として経費が少なく取扱にも軽便で油臭くなく、乾燥が速く皮膜力が大きい等の優れた特徴を持つ為、一般の洋式建築に対して壁塗りとして賞用される。こうしてこれが、展色剤<のばす>として従来はカゼイン、ゼラチン、デキストリン、樹脂石鹸等の水溶液が用いられたが、これ等は当時いずれも海外からの輸入に待つもので価格も高価であった。先生の研究になるソーライトは原料として満州産大豆粕を利用して充分その目的に適用すると自ら実証され、ソーライトは市場製品として世に問うこととなり、大正3年4月、大連市ソーライト製造株式会社が設立された。これは大豆蛋白を原料とする水性塗料の嚆矢<コウシ=起源>と言われるものである。会社の創立当時の陣容は以下の通りであった。
ソーライト製造株式会社(大連市淡路町12番地)
設立 大正3年4月
資本金 1万円<現代価約1億円>)
顧問 鈴木 庸生
社長 遠藤 裕太
取締役 長谷川 潔 同 小松秀雄
監査役 平井 大次郎 同 岩島三郎
この様にして新発明品ソーライトは小資本ながら水性塗料界の寵児として新たに登場し年々声価を収めるようになったが、大正末年、会社経営の都合により解散を余儀なくなり、今日ソーライトの名を留めるものは無いが、その後ハッピー、ピース等と名付けられ、相次ぎ本邦の塗装界に現れ今日普及しているが、これ等は水性塗料のソーライトの発明に端を発したもので、その製造法は多少の改良変化を加えたものに他ならない。
次にソーライトに関連して鈴木先生の発明に係わる大豆油製品タンタルスがある。タンタルスはソーライトに耐水性を与える目的で研究されたもので、大豆油の様な半乾性油又は乾性油のアルミニュウム石鹸とアルカリ石鹸との混合物を主成分とし、水を混入すれば容易に乳化剤を生成することを特徴とするもので、ソーライトの発明に一年遅れて大正4年3月、特許を得た。タンタルスの名称は先生がギリシャ神話の「水の嫌いな一帝王」の名に因んで命名され、ソーライト製造会社からソーライトと共に、その配合剤として製造販売された。これを配合するとソーライトの塗装面は粉化剥落の恐れなく且つ防水性に富み、乾燥後の水洗にも堪えるものである。
大豆油金属塩利用法の一新テーマとしてここにも天才鈴木先生独創の片鱗が覗われる。
先生逝かれて、ソーライト、タンタルスの名は世に止めないが共に大豆油及び同蛋白利用の発明製品に対する魁<サキガケ>として、大豆化学の発明界に於ける先生の功は偉大であった。
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(6) マグネサイト工業とリグノイド
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満鉄本線大石橋駅の東北一帯にあるマグネサイトは、対象2年満鉄中央試験所窯業科員吉沢篤次郎氏によって発見され、満鉄地質調査所の調査によるとその鉱床は遠く安泰線連山関付近に達し、雄大な規模であることは世界に類なく、埋蔵量は100億トンを超えると推定されている。
マグネサイトの用途は耐火材料、建築材料、金属マグネシウム製造原料、あるいはパルプ製造用、ゴム充填剤など極めて多岐に渡り、その産額は近年著しく増加して、今日マグネサイトは我国にとって重要鉱山資源の一つとして注目されている。新たな利用、加工法の研究の発端を拓かれたのは鈴木庸生博士である。当時満鉄中央試験所応用化学科長としての鈴木先生は、マグネサイト鉱床の発見後逸早くマグネシアセメントとしての利用法を創案された。マグネシアセメントは別名「ソーレルセメント」とも呼ばれ、1867年よりフランスの化学者ソーレル氏の発明になるものでマグネシアを塩化マグネシウム或いはその他の塩類溶液にてこねると凝結、硬化する性質のあることを利用したもので、その作用はオキシクロライドの生成に基ずくものと認められている。
マグネシアセメントはポルトランドセメントに劣らない強度を示し、製品は光沢を有すると共に着色が容易な為、美麗な人造大理石、化粧タイル等の製作に適し、又その著しい長所は鋸屑、コルク粉等の有機質との結合の勝っている点にある。従ってこの様な方法で施工した舗床はコンクリートの様に強靭で且つ板張りの様に歩行に快感を与えられる。ただこれの欠点は湯気に弱く、硬化後表面にシボを吹き出す、あるは発汗して次第に光沢を失い、美観を損なう。
又マグネシアセメントはボルトラードセメントと異なり、単に水で練る操作だけでは施工の目的を果たさない。予めマグネシアの粉末と塩化マグネシウム等の塩類溶液とを別々に作り、使用に際して両者を一定割合にこねなければならない不便がある。
鈴木先生が大石橋のマグネサイトからマグネシアセメントの研究に着手されるに当たって特に注意されたのはマグネシアセメントの持つ不便、欠点の改良にあった様に覗える。本研究は大正、5年より開始され、先生指導の下に故片山嵓氏が主として当たられたが研究結果の概要は次の通りである。
先ず、マグネサイトを800~900℃に焙焼して所謂軽焼マグネシアとし、これに塩酸ガスを吹込みマグネシアの一部分を無水塩化マグネシウムとし、これに鋸屑、顔料等を混和して均質な粉末を製造する事に成功した。この製品の組成はマグネシア80%、塩化マグネシウム20%を最も適当と認められた。これは既に塩化マグネシウムを含有するので水で練れば直ちに硬化し、従って本法に依れば従来のマグネシアセメント使用時のの不便は完全に除去される訳である。
又これと同時にマグネシアセメント製造の基礎的研究実験は一応完了し、本製品は先生に依ってリグノイドと命名されたのである。先生は更にその工場は大正6年8月に起工し、同年12月1日から作業を開始し、翌大正7年1月から製品をだしたのである。こうして製品リグノイドは室内床張り用にとして施工されたが今も中央試験所本官の階段にはその一部が残っている。
こうしてリグノイドは慎重な試験に試験を重ねて、順次改良が加えられて遂に優秀な成績を収めるに至ったが、当時の記録を辿ると当試験工場は建設費1万4500円<現代価役1億4500万円>を要し、マグネサイト焙焼用反射炉、塩酸発生炉、塩酸吸収窯各一基を設備し、粉砕用エッヂランナー並に混合機一台を5馬力電動機を使用した程度の今日より見れば極めて小規模のものではあるが満州産マグネサイトの利用法についての全く新たなテーマとして当時鈴木片山<故片山嵓氏>両先生の研究は広く世の注目を惹いたものである。
一方マグネサイト鉱床の発見以来、その開発の目的に有識者の間には会社設立の議があり、満鉄会社もこれに賛同したが、この計画は先生によるマグネシアセメント製造の成功が一契機となって進展し、ここに新製品リグノイドの製造を以て設立当初の事業の基幹とする事となり大正7年4月、資本金60万円<現代価約60億円>を以て株式会社南満鉱業が設立される事になった。
同社はマグネサイト並びにこれを原料とする加工品の製造、販売とし、満鉄からその鉱区内にあるマグネサイト鉱石の一手販売権の譲与を受けたものである。よって、満鉄は中央試験所リグノイド試験工場を同社に貸与することになり、試験用諸機械の一切を払下げて、同年10月10日引継ぎを完了し、同社は改めて鈴木先生を顧問に迎えて先生指導の下にリグノイドの製造に従事する事となった。こうしてリグノイドの名声は日を追って高まり更に同社に於けるリグノイドの他に種々改良考案が加えられて今日ではマトリス、ロックスタッコ、エラスコ等マグネシアセメント系の各種製品の製造を行い、他にも市場には類似品が続出して、この応用がただ鋪床材料に止まらず、壁塗り用、及びタイル等にも使用される様になり、その需要はは次第に増加して現在に至っている。
尚、南満鉱業株式会社は設立の始めからマグネシア耐火物も大量に製造しようと企画したが、欧州大戦の不況時代に際会して経営が意のままにならず、僅かに満鉄中央試験所窯業工場に於けるマグネシア耐火物の試験製品の一手販売権を得てその販売に従事することに止まった。この間マグネシアセメントの製造は極めて好調で特に大正12年関東大震災後は帝都復興材料として需要は激増し、同社の経営も増加した。大正末期いはマグネシア耐火物の価値が一般に認められその需要は次第に順調となったのである。更にマグネサイトから軽焼マグネシアセメントの他に金属マグネシウム製造原料、パルプ製造用等の新用途が拓かれそれぞれ製品の増産に追われて、昭和12年、14年の増資に依って資本金1千万円となり、昭和16年5月には更に倍額に増資され、南満鉱業会社は資本金2千万円となり、満州国準特殊法人会社としてマグネサイト工業に君臨して、我国防産業の一翼を担う所となった。
以上の様に南満鉱業株式会社はその昔マグネサイトにリグノイド発明の完成により誕生し、数多の曲折もあって遂に今日の盛況を見るに及んだのである。更に鈴木先生はが満州を去られて後の理化学研究所鈴木研究室に於ける金属マグネシウム、炭酸マグネシウムの研究等凡そマグネサイトに関連ある一群の研究は遠くこのリグノイドの研究に端を発するものと察するのであって、先生がマグネサイト工業界の一大先覚として残されたその功績は真に消滅することはないはずである。
先生の奥津城の墓石は南満鉱業株式会社専務堀尾成章氏によって特に贈られた大石橋産マグネサイトを以て作られたことは、先生のご生涯にとり、またとない記念として地下の英霊もご満足の事と拝察する次第である。
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